昭和51年01月18日 月次祭
今日午後の奉仕の時に、せいうんという俳句の先生の御本を開かせて頂きましたら、こういう句が、痛く私の心を捕らえて離しませんでした。「発心は 悲し勇まし ほととぎす」と言う事です。「発心は 悲し勇まし ほととぎす」。三時から朝の教話の研修をしました。研修の前後に、この事を申したのでございますけど。今今日が十、先生方それから修行生の方達、合わせて十六名の者が、ここで色々自分の頂いておる所を、それぞれ発表し合うのです。今日また修行に出てました。
修行生の方達が四名帰りましたから、明日からは二十九名で、まあ研修する事になります。例えばその二十数名のお道の教師を志、またお道の教師にならせて頂いとります、方達の私は心をです、これほど素晴らしく(息を詰まらせる)まあ表現して句はないように思うて、これをくり返し読みよったら、本当に私自身悲しくなってきた。「発心は悲し勇ましほととぎす」であります。
発心すると言う事は、いわゆる一心発起であります。二、三日前に宮崎地区の御信者さん方が、月に一回かまあ二回しかお たは特に「おかげの泉」を中心にして、一週間にいっぺんつづぐらい各家庭を周りにして、おかげの泉勉強会というのを創りました、と言うのです。もう本当に私は恐れいりますけれどもね、あのくり返しくり返しあのおかげの泉を読まさせて頂いておると、おかげを受けるんです。
その中にこの元旦祭に初めてお参りをして、まあただ物見遊山のつもりで参って来たというある方が、元旦祭でお話しを頂いておるうちにです、「今までの生き方、生活が全部嘘であった。」と気付かせてもろうて、それから途端にありがとうなって、今日までその有り難さが続いておると言うのです(感動)。今までの生き方在り方が嘘であった。そしてこれからは信心により、いわば教えにもとづいての生き方をと発心させて頂いた所が、それから今日まで、その有り難さが続いておる。
所がその有り難さがです、過去のいうならば間違えであり、嘘である事が分かっておりながら、その過去が又は今までの生活が、やっぱり懐かしゅうなってくる。それを捨てきっておる自分が愛しゅうなって悲しゅうなってくるという時が必ず来るのです。まだここの前身であります、椛目の時代。先生方も久保山先生、藤原先生まだ二、三人しかおらない時分でしたから、私が朝から夕方の五時まで四時までずっと、いわゆる門外不出で奉仕させて頂いておった時分でございます。
あれは丁度梅雨の頃であったろうかと思う。本当にそれはもう夏は夏冬は冬で、もうとにかく寒い所であり、夏は、もう愈々暑い所でしたが、それこそ背中に暑いような汗を感じながらでも、前からは有り難涙がこぼれ(感動)よった事があったけれども、かというと外に出られないと言う事が、なにかもう悲しゅうなってね、と言う様な時もあった。丁度そういう時だったでしょう。今楽の御用を頂いております、愛子が、まだ幼稚園に行っとります頃でした。
従姉妹の「やすこ」と二人で、ただ今を御結界に言うに来たんです。それでまあ二人を捕まえてから、幼稚園でどんなことじゃったかと、何を習ったかと、まあ言うて聞かせて貰いながら、まあ私の私が私の心を慰めておる訳ですね、子供達に話して。そしてなら「今日、習ってきたその歌をここで歌いなさい」(笑い)と二人がここに立ってから歌うんです。雨が降ります雨が降る。うんなんやったかな紅緒ののがっこの緒も切れた、か。そういう童謡を歌うんです。
丁度私は身につまされて、出ようと思うても出られぬ、紅緒のがっこの緒が切れた訳ではないけれども、「神様に出ません、座りぬきます。」と一心発起してあることが誓うてございますのですから、それこそ遊びに行きたいけれども、「紅緒も切れた、傘もない。」というような、その歌を聞きながら涙をこぼした事がございます。一心発起とは、だから、そのように悲しい時もまたあると言う事でございます。
若先生がまだ十一でしたか、十二でしたでしょうか。ある正月に御神夢を頂いて自分で御神夢を頂いたというた。そしてその御結界の奉仕をせにゃ成らん様な事を頂いた。それから、私の五時から六時までの一時間の間を御結界奉仕を始めました。田主丸のむつ屋という呉服屋さんのおかあさんが、その奉仕をしておる姿を見てから、もう涙こぼしてからね、喜ぶんです。「もう二代様がこうして出来られたから大丈夫」と言う訳なんです。金光様は十三歳の時から、内の若先生は十二の時からです。
それで早速紋付袴を作ってきてから、今もそれが残っております。小さい紋付小さい袴をはいて、それで一時間つづではあるけれども奉仕するんです。ところがねその丁度その時間に、あの裏に道がありましたが、裏の道の所に紙芝居がやって来るんです。同じ時間に。ああカチカチ言わせよる。それで自分は座っとるけれども、気が気じゃないわけですね(笑い)。それでもやっぱりどう辛抱しとる。あの机がその当時のですが、前の方に鉛筆でもうこうこうやって、その穴をほがしております。
はがいい訳です。だから私はあれはいつまでも、この傷はね、あのそれこそとっとかないけんち言うてからですね、そのまま使っております。もうここに鉛筆の芯、こげんやってつりささっておるんです。ある時はしくしく泣きよります。どうして泣くね御結界奉仕しよってどうして泣くねて。「僕はね、御結界奉仕をしようごとなかけんで、泣きよとじゃなか。おしっこいこうかなち思うてち(笑い)」。なんのじゃろかいもう五分間でも遅れると、てんで機嫌悪かとですよね(笑い)。
こりゃまあここは不思議に有り難い所であると同時に、また不思議な心の働きを起こさせて頂く所です。確かに「発心は悲勇ましほとどぎす」であります。そこで私は今日、修行生の方達に話したんですけれども、今は皆さんがもう一生懸命、この春にはどうでも学院に行かなならんという人達が五人おります。みんな若いまあ二十いくつかの、それこそ( ? )これから黒衣に包んで、「一生を身も心もあなたに捧げます」というのですから、大変なことですよ、やっぱり(感動)ね。
ですから今はもうとにかく、まあ「親先生の一言を神の一言」として頂いて、一生懸命の修行をさせて頂いて、朝の御理解を頂くその姿勢が違う。その研修をしておるその発表を聞かせて頂いてまあよう素晴らしく、そのふうに把握ができた。しかも親先生が言うことをね否定なしに皆、そうですそうだと合点しながら頂いていおると言う事が、素晴らしいと私は思うのです。「先生はあげんいいなさるけれどもじゃなくてから、私達もそういうおかげを頂こう。
ためには先生の言われる様ね事を、矢張り思い行じなければならない。」と言う事を確信をしてから頂いておると言う事が素晴らしい。今はそうでそれこそ勇ましい心をもって、一心発起をさせて頂いておるけれども、これから、また時々は悲しい思いをするようこともあろうけれども、その悲しい中にも一つの信心の情操とでも申しましょうか、その悲しい事がまた有り難い、と言う様な受けもの受け止め方というか、頂き方を私の体験通して、今日は聞いてもろうた。
悲しい時があるんですね。けれどもその悲しいから辛いからと言うて、それを他に求めたんでは、もう信心にはなりません。一心発起した値打ちがありません。そこを貫いてこそいうなら、三代金光様が「初めは辛うて辛うてよう泣いた」と仰せられますようにです、そこを辛抱し抜かれた所に、「我情がなくなり、我欲なくなりいわゆる思う事もなくなり、欲しいものも無くなった」と仰せられるほどに素晴らしい、心の状態が開けてくるのです。とくに一生をそれこそ「身も心もあなたにお任せする」
というて修行に打ち込む、信心修行に打ち込むというのですから、一言二言ではない。例えば皆さんの場合でもそうでしょう。例えばなら一言今日の御理解を頂いて、「今日を境に本気で腹は立てんぞ」と一心発起するといたしましょうか。「もう今日は神様、腹を立てさせて下さい」というて、腹を立てないかん時があるです。愚痴は言いません。不足言いません。言うちゃならん事も分かっとる。言わんなら、おかげ頂く事も分かっとるけれども、言わなおられんという時があります。
そこを辛抱しぬいて行く所の、いうならばおかげを頂く事の為に、皆さんが今大払信行を一生懸命やっております。私は今日福岡の教会の報徳祭に合わせて、初代の六十五年の式年祭のお祭りがございました。まあお供えを色々万端に揃えて、若先生が私の代参をいたしました。帰ってまいりましてから聞かせて頂いたんですけれども、本当にやっぱりそこそこで様々な流儀がしかもこれではいけないと言う所から、より本当な事を求めて色んなあぁ形の上でも、改めたりしておられるんだと言う事を思いました。
御祈念中に祭典中に、親先生が御神前に出られてから「生神金光大神様、生神金光大神様、生神金光大神様」というて練習される。そしたら皆がそれに合わせて「生神金光大神様」の練習をする。「しかしそれは素晴らしい事だね」って私は言うた。今合楽で大払信行をやっておる。まあ、それと同じ意味の様事ではないだろうかと私は思うです。合楽ではここで皆さん、まあ毎日朝昼晩の御祈念の時だけにしか、大払を奏上いたしませんから、結局めいめいの家庭で時間をきって。
親子が家族が又は東京に行っておる、大阪に行っておるという娘や息子にも連絡をして、お母さんは何時から御祈念をさせてもらう。あんたは何時から、そん時間を合わせてから大払信行をさせてもらう。しかもそれは無条件。あれを頼まなければならんから、これを願わなければならんからというのではなくて、もうお道の信心、金光様の御信心者としての当然の勤めとして、この勤めを果たしぬかして頂こう。
十年とこの修行が続いたなら、本当に「我ながら、我が心を拝める」様に成る事を確信して、御神前に向かえ。五巻十巻、そして十五巻も二十巻も上げておる人がある。それこそ宅の神様の勢いが出て来なさった。今まで栄養失調で合った様な神様が、生き生きとしてみえた。生き生きと躍動してみえた。おいさみがはじまった。お知らせを頂く様になった。これは本当にすさまじい。
私はそういう方達のお話しを聞きながら、こんな事を思うのうんです。先日から吉井の杉さんのお導きのあったある方がです、二、三日合楽にお参りをして来てから、杉さんに帰り「杉さん、杉さん、私は今までこげな有り難い信心があるとは知らじゃったち。もう、毎日、毎日の御理解の有り難さ。もうこげな事はだれにも話しますまいや。(笑い)あんまり素晴らしい(笑い)けん、人に聞かせん。もう人に教えてやらんち。」。そういう心が、人間の心には確かにあるですよ。
私もそれに似た様なものを、皆さんがですね、大払信行をさせて頂いて素晴らしい、その成果が上がっとるのを聞かせて頂くたんびに、「こげな事誰にも教えなさんな(笑い)」ち、言いたいような心がするけれども、まあそれを押さえて、皆さんに教えよる。というほどしに有り難い。なぜかというとね第一にね、大払信行をさせて頂いておると言う事は、まず心が清まるです。初めの間は様々な雑音が入ってくる。
様々な心の状態が乱れておるけれども、それが五巻十巻と続けられておるうちにですもう何にもない事。それこそ思う事も欲しいもんも無くなってくる。我情我欲が離れたその状態が頂けてくる。神様と交流してくる。もう神様の前を立とうごとないごとなってくると言う様な、いうならば兼業とでも申しましょうか、大払信行が続けられる、しかもそれが家庭で出来るというひとつの運動がです。
今年はそういう信心に合楽に御縁を頂いておる、すべての方達が徹底してでける様なおかげを頂きたいというのでございます。そういう有り難い心を日のうちに、例えば二十分でも三十分でも開かせて頂くという事がそのままとりもなおさず、様々な事があります。降りもすりゃ照りもする。有り難い時ばっかりない。勇ましい元気な心ばっかりな時ではない。心ではそう思うておっても体が言う事を聞かなかったり。
体では分かっておりながら、心ではその反対の事を思うておったり、様々な事がありますけれども、そういうね「発心は、悲し勇ましほととぎす」であってね、悲しい時もあるけれども、その悲しい時のその事を、その事も一つの味わいとさせて頂くような心の状態というのは、神様に向こうた時のあの無心の心であると私は思います。そういう心でその悲しい事の実態を見極めてみる見つめて見る。悲しいけれどもまた有り難いという心の状態が続く事を思います。
一生を「身も心も神様に捧げます」と言う所にね、自分自身の助かりは勿論人が助かりほどしのおかげになってきましょうけれども、みなさんが日々信心のけいこをなさる、一言一言の事でもです、この事を有り難い事頂いた。これを本気で行じよう是を本気で私のものにさせて頂こう。と一心発起させて頂くのですけれども、それがもろくも崩れるようなと言う事があるけれどもね、そこの所を愈々大切にしておかげを頂いていくと言う事が信心であります。楽しい時嬉しい時にはどんな事でも誰でもできます。
そういう時こそ、大事にするこそ信心であります。今日は皆さんこの発心は悲しい事でもある。今は勇ましいく生き生きとしたおかげを頂けておるのだけれども、いつそれが悲しい事に変わって来るか分からない。「遊びに行きたし傘はなし。紅緒のがっこの緒も切れた」と言う様に、こうと決めたらこうだと、そんなら例えば私共がここに座りぬかせて頂いて、立たんと決めたら有り難い。
もうそれこそ背中に暑い汗を感じながらでも有り難い。かと思うとですもう足が痛とうして痛とうして、ちょっと立とうごとしてこたえんごとあろう時もあるけれどもね、それを私は辛抱しぬかせて頂いて「ようも今日まで、辛抱しぬかせて頂いたことが有り難い」と、その事に対して、お礼が言えれる様になる信心が出来て参りましたら、愈々有り難い。それには愈々ひとつ皆さん大払信行をね、本当のものにしてただ何日かで挫折してしまうと言った様な事なしに、本気でこの大払信行のいわば修行にね。
取り組ませて頂く確かに初めの間は、先日なんですか「いながわ」さんでした。お夢を頂いた。自分でもやってる。家内でもやっておるけれども、まだようと大払を覚えておらんぐらい。ちょうしがでらない。どうもちぐはぐでおかしい。途中で笑いだそうごとなってくる。そしたら朝方お夢を頂いた。あの笛ねいわゆる横笛。おおてきとそれから鈴を頂いた。それこそ鈴の音を打ち振るようなよい音色がね。
これから出てくる。それこそ笛の調子のおうたね、素晴らしいなら曲なら曲が吹きこなせれるようになって参りましたら、ひとつのリズムがでてくる。そのリズムに乗って大払を奏上させてもらう。もう有り難い楽しゅうてなってくる。そりゃ必ず十巻ちゅう事はいらん。もう三巻目にも二巻目にも、いや一巻も上げないうちに、心がそういったリズムに乗ってくるような、おかげを頂けるように段々なってくる。その心の状態が有り難い。もう御神前を離れようごとなくなってくる。
そういう心でね頼む事があるなら頼まならん、願う事があるなら願わねばならん。ただ拝みよるけれども、それはなにかお願いをする時だけの、毎日の御祈念であったり、拝むというのではいけません。おかげを頂くためにただ三十巻も、日に五十巻も大払を上げたという人があるけれども、なにかそこの大きな願いなら、願いを立てからの事ですから、条件があるからそれは本当なもんじゃない。
いわゆる無条件で金光様の信者として、もう当然の事。神様にご神飯を奉るようなつもりで、私は大払信行がなされるならば、神様がそれを糧となさる。その無心の心を真心として受けてくださる。神様が生き生きとして見える。そこん所に私共の心もまた、生き生きとしてくる。そういうおかげを頂きたい。只今寒修行中ですが、もう今私は四時のご祈念じゃ、もう半分ぐらい集まっとる。
五時の若先生のご祈念の時には、もう立錐の余地も無いないぐらい、ここにいっぱい詰まっておる。私はここの修行が始まる前に申しました。毎年この寒行の寒中修行にかけようじゃないかと。色んな願いをもっとるじょろうがみんなが。その願いをこの寒中修行にかけようと言うふうに申してきました。今年はそうではない。今年はもう無条件。ただ大払信行の基礎作りと思うて。
信行をさせて頂こうではないかと皆さんに計っております。大払信行はそのように素晴らしい事なのです。まだ寒中修行に出て来てない人は、例えば成程こういう雰囲気の中に信心のけいこをするなら、愈々有り難くなることが分かると思います。出て来れない人は、何とかしてでも参加させてもろうてね、修行の有り難さを、いよいよ味わさせて頂かなければならんと思います。今日は「発心は、悲しい勇まし、ほととぎす」そう言う事を聞いて頂きました。
どうぞ。